身体の美しさとは、外見のことばかりではありません。
外見ばかり気にして内側の重要性を忘れてしまうなら、「真の美しさ」など、叶いもしない単なる夢物語です。
なぜなら、
内側をないがしろにして外見ばかり取り繕うことに必死だとしたら、
「真の美しさ」を理解する知性がないことを意味し、
「臭いものには蓋をしておけばよい」
という、なんとも醜い心の現れということになるのですから。
その状態こそ、紛れもなくその人の真実。
自分はうまく隠しているつもりかもしれません。
上手に化けたつもりかもしれません。
ですが、
感性を持っている人間というのは、
騙し通せるほど愚かではありません。
人間の「感性」というのは、
その「嘘」を見抜く知性を持っているのです。
ですから、そのことを知らず無知なまま
自分を誤魔化し続けるなら、
「罪悪感」
となって、えも言われぬ不安となり、
自分を襲ってくるのです。
他人は騙せても、自分は騙せない
という言葉通りなのです。
そして、
感性の鈍い他人は騙せても、
感性豊かな鋭い他人を騙すことはできず、
むしろ自分の真実を見抜かれてしまうのです。
自分さえ知らない自分の真実を。
中から美しく。
中こそ美しく。
ですから、「真の美しさ」を望むなら、
外側よりも、もっと優先的に内面を磨いたり、
内側の健康に心を配ったりする必要があるのです。
自分の内側に在るものが、
自ずと外側に滲み出てくるのが
どうしようもない事実なのですから。
アレルギーとか、
なんとなくの身体の不調とかでさえ、
「人間なんだから当たり前」ではなく、それは、
己の怠慢と自分自身への無責任さの表れ
と理解すべきです。
厳しいかもしれませんが、それが真実であり、
真に美しい人というのは、
その真実を理解しています。
「身体」=「自分」
と捉え、自分の考えや、身体づくりへの取り組み方が
一般常識とは少々異なる上に、
一般常識に侵されていない本質を理解できる知性が、
その人の肉体=「身体から発するエネルギー」となって
その人を輝かせているのです。
「どうしてあの人は、いつも元気なのだろう?」
「どうしてあの人は、いつも輝いているのだろう?」
というのは、
れっきとした、それだけの根拠があるからなのです。
自分自身=身体
に対する
怠慢と無責任。
それを放置する(=今まで通り自己流の古い理解のまま)か、
改善する(=今までとは異なる新しい方法を知る)のかは、
その人自身の価値観によります。
どのような価値観で生きているかもまた、
その人を形成するのですけれど。
「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」
というリンカーンの有名な言葉がありますが、
これは男性に限らず、全ての人に当てはまるはずです。
美しい人というのは、言葉では説明できない
目に見えぬ「何か」が「感じられる」人のこと。
何がどうだと言葉では説明できなくても、
「何か人とは違う」
という魅力などは、
自分自身の内側に責任を持った人が蓄積して来た
全ての積み重ねによって、その人の顔(=雰囲気、オーラ)
を、つくり上げた結果なのです。
それが身体から滲み出てくる「エネルギー」となって
自ずと外に見えているというわけです。
きれいに着飾っても、何も感じられなければ、
それを美しいと表現することは難しいでしょう。
美しさが「感じられる」時、
私たちには、「美しい」と「見える」のです。
それこそが、紛れもなく、その人から溢れ出てしまっている
エネルギー。
エネルギーの質が美しく、
美しいと感じさせるだけのエネルギー量があれば、
その人は美しいエネルギーを発している
ということになります。
外側の美しさのために、内側の美しさに責任をもつ。
今は、そしてこれからは、
そんな価値観を持ち、
説明抜きに美しいエネルギーを発する人が
「素敵な人」と称される時代です。
誤魔化し抜きの、
美しい身体、美しい人、美しい生き方を目指して、
内側の磨き方を何よりも優先して学び始めることです。
「〜だし」「〜だから」
と言い訳や正当化をしている場合ではないはずですから。
タダで仕入れた安物の情報で
自分自身をつくり上げることに終止符を打つことです。
もし、
本当に理想的な身体=自分自身
をつくる方法を、
我が子に教えてあげられるほどには知らない
というのであれば尚更です。
何も伝えてあげなければ、
あなたの愛する人は、
「あなたの今」と同じような身体の状態をお手本として
知らぬうちに目標としてしまうのですから。