自分を磨く・高める。その為にすること

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「自分を磨き、高める」
とは、

「私はガンバってる」
「私はもう十分」
と、自分の限界を自分で決めつける、そんな「傲慢」な姿勢を意味するのではありません。

その代わりに、謙虚に、真摯に、まるで限界などないかのように素直に、自分自身の「一歩向こう」に挑戦してみることを継続し続けることなのです。

今日、目の前に起きている事柄に対して、自分勝手な判断を下すことよりも、それが起こっている意味を理解しようと努めること。

それが「己を知る」という試みであり、

その試みが、いずれ自分自身を含む「人間理解」に繋がり、
その結果、理想的な人間関係を構築できる実力がつき、
豊かな人間関係のある人生構築ができるようにもなる
というわけです。

私たちは、つい自分のプライドが優先となって、
(自分の判断は正しいと思いたいのがプライド)
物事を、良い悪いと判断してしまいがちです。

ところがその判断(=ジャッジ)を無意識に繰り返すことは、
自分の可能性を閉ざし、人との交流を
閉ざしてしまうことになってしまいます。

なぜなら、

良い悪いは、所詮、
自分の狭い視野で結論づけた、

つまり、「今日の自分」
のレベルで下した判断でしかないからです。

「理想的な自分」の判断ではなく。

理想的な自分ではない自分が下す判断が
本当に正しいのかどうか・・。

多くの場合は、
知性(=理想的な自分)で判断したというよりは、
感情に影響を受けてしまった
間違った判断を下す場合の方が圧倒的に多いのです。

よほどの感情コントロールを訓練した
と自信があるのではない限り。

より成長した自分なら、
もっと大らかに、もっと広い視野をもって、
理解を示し、
多くを受け入れることができたかもしれないのにも関わらず。

 

例えば、

「自分はまだダメだ」

とか、

「自分はこの程度」

とか、

「この子はダメだ」

とか、

「この子はこの程度」

という風にジャッジしてしまうとしたら、

この「ジャッジ」は、
無意識下に落とし込まれて行きます。

ですから、その後どんなに口先で

「私はまだ可能性がある」

といっても、

「この子はまだ可能性がある」

といっても、

無意識下では「ダメだ」

という情報がインプットされていますから
そちらの情報の方が優位に働いてしまいます。

 

ジャッジする自分

とは、ジャッジする資格を持つ「裁判長」
として最も偉い立場にいます。

その最もエライ「長」からジャッジされ続けて
教育されてしまった無意識の中の情報たちは、
最も偉い「裁判長」に従うしかありません。

その結果、無意識たちは、
自分たち無意識が信じ込んだ情報として

常に

「ダメだ」

という情報(環境)の中にいますから、

「ダメだ」

という情報を発散し続けます。

 

マイナス思考の人ばかりの環境で育てば
マイナス思考に、
プラス思考の意人ばかりの環境の中で育てば
プラス思考の人間になりやすい
というのと同じです。

 

無意識の環境に「ダメだ」という情報が多いと、

「なんとなく自信がもてない」

という状態をつくっていくというわけです。

 

親の無意識の情報が
子供の無意識に影響を与えるのです。

自分の無意識の情報が
自分の無意識に影響を与えるのです。

 

ですから、無意識の情報によって、

本来持っているはずの

伸び伸びと能力を発揮する自由さ

を失わせていくということが起こるわけです。

 

しかも、このジャッジは、
「無意識」に行っています。

自分に対しても、子供に対しても。

ですからコントロール不能です。

何せ「無意識」でやっているのですから
コントロールなどできるはずありません。

コントロールできるということは、
無意識ではない、ということを意味しますからね。

 

 

このように、ほとんどの人間は、
自分を高めることとは、
全く逆のことをしているわけです。

 

親自身は、
実は自分が我が子の能力の邪魔をしているなんて
思ってもいません。

まるでその逆、「良くなってほしい」
と願っています。

そう信じてやみません。

親自身も自分に対して、
自分自身の能力の邪魔をして
自信を失うように仕向けている
とは思ってはいません。

むしろ、「もっと良くなりたい」
と願い、実際、その努力だってしています。

 

ですが、

その努力や思いが、

全く有効に働いていないとしたら?

 

それでもあなたは、自分のやり方に固執して

「自分は間違っていない」

と頑なに自分を貫く勇気があるでしょうか?

 

「自分と子供を犠牲にしているとは思っていない」

だから

「自分と子供を犠牲にしていない」

と言い張って、

自分自身や子供が犠牲になっている事実を
認めようともしませんか?

 

それとも、素直に「マズイ」ということに気づき、

すぐさま自己流を改善する姿勢へと
変える勇気と素直さを発揮させますか?

 

どちらでも選択の自由は許されています。

 

自分の人生は自由に創ることができるのですからね。

 

それなのに

「そんなに自由に創れない」

と思うとしたら、無意識下に

「自由はダメだ」

という情報を持っているからということになります。

 

「そんなことは思っていない」

と思っても無駄です。

無意識下の情報というのは
「無意識の中」にある限り、
私たちに「意識」できるはずないのですから、
自分が何を考えているかと無意識は
この場合、全く関係ないのですから。

 

このように、
無意識下で自分を支配してしまっている
無意識の仕組みについて
少しでも理解を深めることができたなら、

「自分を高める」ということが、
ただただ頭の中で思い描いても無駄である
ということもわかるはずですね。

 

自分を高めたい
子供の能力を引き出してあげたい

と願うなら、

無意識下の情報を理解できるようにする感性

と、

感性を養う知性

が必要だということ。

 

感性と知性をバランス良く整える練習の必要性

もまた理解できるようになるはずです。

 

練習もしない、訓練もしないで
自分を高めたいなんて
厚かましいことですからね(笑)。

 

 

けれど、安心してください。

 

「自分を高める」ということは、

素直になればいいだけ

という、

腰が抜けるほど
意外に簡単なことなのかもしれないのです。

 

それでも、なかなか素直になれないとしたら、
それは、無意識下に

プライドだとか、エゴイズムだとかの
余計な情報が多すぎて、

賢いようで実は愚かな選択をしている
という、
なんとも認めがたい
「気に入らない自分」が存在している
ということが考えられます。

 

このタイプであるなら、
その上、改善する気がなく行動を始めないのなら、

もうそのプライドに負け続け、
そのプライドを勝たせ続け、
自分の中の葛藤に疲れ切ってしまいながら
消耗し、頑張って生きればいいだけのことです。

そんな自分を
「自分は続けたい(選択したい)」のだから
その選択を他人は”ジャッジ”することはできません。

 

でも、このタイプではないとしたら、

プライドだとか、エゴイズムを乗り越えながらも、
「自分を高めたい」という思いに

素直に従って、

素直に学んで、

素直に自分を高めていけるタイプということになりますね。

 

学びのないところに知性は鍛えられない

ということを忘れず、
真に自分を高めることの意味を理解すれば良いわけです。

そうすれば、
きっと一般常識ではありえない世界観を
得ることができるはずです。

自分の世界観を広げない
ということは、「自分を高める」とは言わないのですから。

「高めているつもり」といって、
自分や我が子の能力を引き出すことを
先延ばしにしたり、
自分自身の正当性を主張しないことです。

 

「高める」とは、

今の場所から離れる
ということを意味するのであり、

今の場所で留まることは
どんなに高めているつもりでも、実際は全く高めていない
という当たり前のことを理解しながら。

 

もちろん、

実は今の場所に留まろうとしている

と自分の姿が見えないと始まらない話ですが。

 

それに気づくのもまた知性

 

というわけですね。

 

もう、鍛えるしかありません(笑)。

 

 

 


要注意!リノリウムは脚が太くなりますよ

あなたは、
リノリウムの教室でレッスンしていませんか?

 

床材として使われるリノリウムの上で
踊った経験がある人ならご存知だと思いますが、
リノリウムというのは、厚みのあるゴムの様な素材ですから、
その上で踊ると、ふくらはぎが、めちゃくちゃ疲れます。

慣れないと、ふくらはぎがパンパンに張ってしまいます。

慣れてくれば、それなりに平気にはなってくるのですが、

「ふくらはぎがパンパンに張る」

のですから、逆に言うと、

ふくらはぎがパンパンになるよう鍛えることになる。

つまり、

脚がパンパンに張った

太くてたくましい脚になる

ということです。

バレエって、スラっと伸びた細くて強い脚が理想のはずなのに、
これでは、それでなくても欧米人に比べたら短い日本人の脚を
一層、太く鍛えてしまいます。

ですから、理想的なのはやっぱり、
上質な床板を使ったスタジオで訓練するということです。

バレエというのは1回や2回で結果が出るものではありません。

日々の訓練を長期に渡って行うものですから、
日々の蓄積は脚の形にちゃんと、
「積み重ねてきた証」として表れるものです。

脚の形を見れば、
どういうレッスンを受けてきたか、
本格的なスタジオでのレッスンをしているか、
など、わかってしまうくらいなのですから。

しかも、

もし、長年バレエを続けていたのに
結果的にバレリーナにならなかった

とか、

趣味で、健康的に美しくなるためにバレエのレッスンをしている

という場合、

プロのダンサーでもないのに、
太くてたくましいふくらはぎだけが残る
というのはいかがなものかと思います。

確かに、

バレエ・スタジオを経営する上では、
経費は極力抑えたいもの。

ましてやスタジオ建設には、コストの面でも
莫大な資金がかかります。

ですから、どうしても床材は安価なものになりがちです。

リノリウムは、上質な床材に比べたら
比べ物にならないほどに安いですから、
とりあえずスタジオを持とうと思ったら
つい、選んでしまいたくなる素材であることはわかります。

私も実際、
リノリウムのスタジオを考えてみようとしたことはあります。

ですが、これまで全国、リノリウムのスタジオで踊った経験からも、
リノリウムのスタジオだけは持ちたくない
と、一番にその選択を却下しました。

なぜなら、上記のように、脚の負担がひどいということは、
腰や、その他の身体の部位に大きなダメージを与えると
容易に想像できましたし、

しかも、ゴムの上で踊る気分の悪さと言ったらありません。

正直言ってしまうと、
リノリウムのスタジオというのは暗くて、
しかもゴムの臭いの中で踊るというのが、
自分の感性が拒絶したがったという感じなのです。
(あくまで個人の感想ですが)

バレエは、感性が美しくてはじめて美しい踊りを表現できるもの。

それなのに、気分の悪さを我慢してまで
美しく踊ろうなんて思うのが、
それだけで自分を偽る気がしましたし、
無理があるような気さえしたのですから、
どうしても「上質な床材」にはこだわりました。

もちろん、自分の全てをさらけ出すための「鏡」
にもこだわりましたが。

とはいえ、全くレッスンをしないよりは、
リノリウムでもバレエのレッスンをした方がいいという考えも
あるかもしれません。

でも、もし、スタジオを選ぶ余裕があり、
感性を美しく保ちたいというのであれば、

スタジオの環境(素材)

というのは、バレリーナが育つ土台
となりますから、
きちんと吟味して、
リノリウムの弊害も理解した上で選ぶことをお勧めします。

なんでもいいからレッスンすればいい

というのは、少々、粗野な考えでもありますからね。

上質な、プロのバレリーナ達が使うような床材のスタジオであれば、
きっとその他の細かいところまで計算され尽くして
つくられたスタジオ違いありません。

少々間違ったレッスンをしても
脚がパンパンに張って、腰がガチガチになって
身体の老化を早めるということにもならないでしょう。

「上質」とは、このように
見えないところで私たち人間の身体に
そして、センスを司る「感性」などに、
大きな影響を及ぼしているものです。

美しい感性というのは、
素敵なスタジオで、本格的な空気感という環境の中でこそ
養われるものです。

せっかくバレリーナのようにレッスンをするのですから、
気分良く、美しい気持ちになるような環境に身を置き、
その上で、
形の良い、強くてしなやかな身体を得られるよう
磨きをかけて欲しいものです。