己は、怖いですか?
- By Ryoko
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己を知る
「そんなの当たり前ジャーン」
「もう分かってるって」
こういう叡智は、
すぐさま表面的な意味合いばかりが流行して、
チープな言葉になってしまうのが、
なにやら仕掛けられたトリックのように
私は感じてしまいます。
「分かりきったこと」
という錯覚に陥らせて、真剣に取り組んだり、
考えたりすることをやめさせられる
という“にほい”が、してしまうわけです。
大事なことほど、当然、奥が深いから、
誰にでも簡単には理解不能。
それを我慢できない(自分は分かっていることにしたい)者達が、
表面的な理解で、
「この言葉はスバラシー、スバラシー」
といって、安易に使うことで、
大事なことがかえって、
どんどん見えにくいものとして奥底に追いやられていく
という感じがして仕方ないのです。
あまりに「聞き慣れた言葉」には重みがなく、
「知ってる知ってる」
と、容易に知った気になる錯覚してしまいますからね。
「その言葉を知っている」
ということと、
「その意義を理解している」
ということとは全く別物であるはずなんだけど。
知識重視。
たくさんのことを知っていれば合格
その意義を追求する必要もなければ、
本当の理解に至らなくてもお構いなし
という、成績重視の日本の教育方針で育てば、
仕方ない面はあるとはいえ、
その犠牲のまま人生を終えていい
ということにはならないはずなんだけどな。
己を知る
ということは、それほど簡単なことではありません。
やっと一つ分かった、と思っても、
本当は全然、分かっていない、というのが現実です。
もうこれでいいだろう
と思っても、次の知らない自分を発見して
ええーーーーーーー!!!!!!
となったりします。
キリがありません。
「成長には終わりがない」ということを
よく表しているなあと思います。
でも、ま、いいことです。
終わったら、生きることも終わるのですから。
個人的には、もう少し観たいものもあるし、
食べたいものもあるし、
やってみたいこともありますから、
終わってもいいけど、
まだ終わらなくてもいいかな。
ということは、
ずっと分からない部分があってもいい
ということになるのですが、でも、
それが、「ずっと同じ部分」というのでは、
いけません。
なぜなら、それでは、ちっとも景色が変わっていない
すなわち、まったく成長していない
ということになるのですから。
だからといって分かってしまった
と言ってもいけないわけですね。
「その」部分は分かったかもしれませんが、
「この」部分は分かっていないのですから。
ということは、
「分かったと思ったら負け」
という考えでも使わなければ、
実際には、
「分かったつもりの負け犬」
に成り下がってしまうのではなかろーか
と、恐ろしくなるほどです。
サイアクの事態を考えて最善を尽くす
自分の成長にも、
その理屈を使えばいいのではないかと思います。
最良の事態を夢描いて、サイアクの結果
ってことになるより、ずーっとマシだと思いますから。
これだって、どちらの考えを使うか、
選択の自由です。
好きな方を選んでいいわけです。
ただし好きな方を選ぶのですから、
文句いいっこなしです。
文句があるなら選択を変えるしかありません。
自分の成長度合い(結果)に満足しているのでなければ、
己への理解を間違っていると考えるのが
一つの賢い選択です。
己を知っていると思いながら
欲しい結果を得られていないとしたら、
相当、「見る目」を間違えている
と言わざるを得ないでしょう。
何を見てもキレイに見える眼鏡をかけているとか、
映画が映る最新式の眼鏡でもしていて、
自分がハリウッドスターさながら活躍している
現実でない「映画」を観ているとか。
自分自身という「現実」を観るためには、
どんな眼鏡も外さなければなりません。
ピンク色のサングラスでは、
全てがキレイなピンクには見えて
気分は良いかもしれませんが、
それでは現実を観ることはできるようには
いつまでたってもなりませんから。
ピンクのサングラスを外して現実を見たら
「げっ、汚い色!」
と思うかもしれません。
真っ黒なサングラスで光を遮っていたなら、
「うぐっ、眩し!」
と、目つぶしにあう気がするかもしれません。
「あー、気分わる。」
と思うかも知れません。
ですが、それが「現実」。
目にウロコやら、サタンがくっついていたなら、
それもとっぱらって、自分を正しい目で
観れるようにしたいのです。
勿論、魔法はありませんから、
練習するしかありません。
そういう見方に慣れていく
という「実践」が必要なのです。
サングラスをかける、というのは、
現実の光から逃げる行為です。
時には目を守るために必要かもしれませんが、
家でも、人前でも、深夜でも、ベッドでも
サングラスをかけ続ける
というのは、ほとんど異常行為です。
何を恐れているの?
とさえ、思うはずです。
もちろん、
長い間慣れ親しんだ自分の一部になっているのでもあるのですから、
その眼鏡は、簡単に外せるものではありません。
外すのには勇気も必要ですし
上手な外し方と、ヘタクソな外し方もあります。
だから、少しずつ慣れていったり、
外し方を覚えていったりと、
それなりに時間がかかるのです。
ですから、少しでも早く
練習を始めなければならないといっているのです。
怖いから、怖いから、怖いから。
そう言い続けるのは構いませんが、
それでは
決して現実を観る力をつくことはできませんが、
それでもいいですか?
という「選択」にすべきだということです。
怖いから観ないのか。
怖くても練習して観れるよう自分を成長させるのか。
その選択です。
間違いないことをひとつ。
誰だって、自分の真実とは恐ろしいものなのです。
特にはじめて挑戦するときは。
ですが、人生の差は、
恐ろしいといって逃げる
または、
恐ろしいけれど観る
この違いが大きいのです。
それは、
自分や世の中を、正しい目で
観る力を持てるようになりたいのか、
フェイクのままでいいのか、
の、たった一つの「選択の違い」でしかないのです。
見えないことの方が、ずっと怖いと思いますけれど
どう思いますか?
真実が見えない。
それの何が
そんなに素晴らしきメリットなのでしょう?
どうか私にもその貫きたい信念を伝授していただきたい。
「真実から逃げ回りなさい」
と、子供や、周りの人に教えてあげたい
という考え方が、よくわかりませんので。
逃げ回りたいほど怖いことである気持ちは
わかりますけどね。
だからこそ、
それほど怖くない、その人にぴったりの上手な方法
を伝授することを仕事にしているのです。
だって、
「成長したいです!」と真剣なのに、
努力が無駄になる生き方を黙って教えないのも罪じゃない?
「成長したい」と口先だけで
何も行動を起こさない、勇気もふるわない人には
何もしてあげられないけれど。
どれがお好みですか?
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