知恵と勇気について。やっぱり豊かさとか自由とか。

 

今年もまた新しい年を迎えましたね。
迎えられるだけの命があって良かったね、ということですね。
お互いに。

昨年は、大きな変化を求められた一年となり、今年の幕開けは、
いつもとは少々異なる思いで迎えられた方も多いかと思います。

いずれにせよ、目標や目的へ向けての進化や成長という「変化」を
滞らせることなく、
「積み重ね」と、その積み重ねを
「人生の財産と言えるほどに昇華させられるだけの実力をつける」
という、HEAPの理念を実践できるような2021年となりますよう、また、
そのお手伝いができることを願って、新年のご挨拶とさせていただきます。

 

さて、その「変化」について。

変化とは、「進化」や「成長」を示す言葉ですが、
言い換えると、変化がないというのは、
進化も成長もないということに。

もし人間が成長すべき存在だとすると、
成長しないことは罪であり悪ということになるわけです。

ところがその一方で、人間は、
生物としては変化を怖れる生き物であるから厄介です。

この、厄介で複雑な、カラクリのような落とし穴に落ちて、
這い上がれないほどにケガをしてしまわないことが
「賢明さ」ということになるわけですね。

 

 

例えばですが、

子育てを間違って、
毎日がイライラの連続。

それなのに子供は案外、
実力不足のどーしよーもないヤツだったりして。。

「どーしよーもないヤツ」

と言っても、「悪い人間」というわけではないところが
クセモノです。

学校の成績も悪くない。
別に悪いことをするわけでもない。
フツーにお手伝いもするし、
フツーにいい子だし、
母の日にはカーネーションでも送ってくれる。


普通。

ふつう。

フツーにいい子。

 

 

だから

「うちの子は問題ない」

と片付ける。

 

 

ん?

それ、ホント?

イライラさせられてるんだよね?

しかも連続的に。

5年に1回とかではなく。

 

それで
「問題ない」ってホント?
「問題ない」って言っちゃって大丈夫?

 

もしこれが、

ホントじゃなくて嘘だとしたら、

「問題ない」なんていうのは大ウソで、

それどころか、

すぐさま改善すべき「問題アリ」だとしたら、

親が「問題ない」と「嘘を言っている」
ということになる。


大丈夫?

 

 

こうして嘘つくことを親がせっせと日々実践しているなら、

子供は、

「いい子を演じる」

とか、

「いい子のフリをする」

とか、

親を黙らせるためだけに
親の気に入る姿を見せて取り繕う

なんてことを始めるかもしれない。

 

 

人は、こうして人を騙すことを覚えていくのです。

 

親が有言で教えたわけではないけど、
親が無言で教えている。


その結果として、

親が教えた通りに、子供も嘘つきになる。

 

その「繰り返し」、

つまり嘘つきになる「訓練」を、

毎日毎日毎日毎日

これまで一体何年繰り返してきただろうか

ということ。


こんな繰り返し(練習)の結果、子供にイライラさせられて、
でもそれを誤魔化し、「大丈夫」ということにして、
対処方法を学ぶこともなく、
ただひたすら悩み、困り、
悩みに悩むことを「努力」と呼び、
挙句に、間違った考えのまま自己流に磨きをかけ。。
の堂々巡り。

 

これはもう、立派に落とし穴に落ちているし、
落ちてケガして痛いはずなのに「痛くない」と「嘘」を言い、
這い上がって広い世界に脱出する方法を
学ぼうとか、覚えようとするより、
落ちたことにも気づかず、落とし穴の底で足掻きまわっている、

しかもそれを「努力」と呼んでいる

という姿と同じみたい。

 

それに、

もし本当に
親が教えもしないのに、
子供が勝手に何かを身につけるとしたら、
その子供は天才だ。

 

それなら、
親が数学を教えたこともないのに、
子供が勝手に数学博士になるなんてことが
世の中に溢れかえってもおかしくないでしょうね。

 

ま、普通に考えれば、
親が教えているから身につけることができるものです。


歯磨きでも
教科書を持って学校に行くことでも
教えないのに勝手にできるようになったかしら?

漫才師や芸人さん達にしても、
どーしてこんなオモシロイことが思いつくかな
って思うわけですが、
やっぱり、その親がなんともオモシロイ表現をするとか、
オモシロイ発想ができるからであって、
退屈な親とか、オカシなことを一つも言わない親から、
オモシロイことが言える人間ができるなんてのは考えにくい。

 

人間は環境の生き物なのだから、
環境が整わないのに、血肉となるほどに
何かを身につけるなんて至難の技だしね。

 

ユーモアのセンスに溢れた人は、
ユーモアのセンスのある会話が家庭の中にあったはずだし、
そうでないなら、自身で相当努力したかであって、
自分自身で自分の環境を整えたからに違いない。

 

言い換えれば、

自分が自分の親となって環境を整え、
自分自身を指導したからで、
環境が整わないのに、芽が出て育つなんて奇跡は
この世には存在しないと考える方が正常。

 

ということは、

環境が整わないのに、
自分の子供には奇跡が起こる
と考えるのは異常ってことになるわけだし、

自分だけ特別で、自分にだけは奇跡が起こる

と考えているとしたら、

あまりに傲慢。

 

ましてや、
「そんなことは考えてない」
「そんなつもりはない」
などと、
自分の「根本思想」に対して、
知らぬ存ぜぬを「貫こう」「貫きたい」とするなら、
無責任も甚だしい。

 

とにかく、

親が教えてもいないのに子供が身につける

ということはありえない

と考える方が正常であって、

どう考えても、
子供は、親が発したあらゆることによって創られた
「作品」に違いない。

不本意だというなら、通常であれば
やり方を考え直すわけですね。
同じ方法では同じ作品が量産されるだけだから。

 

とは言え、

天才にしようと数学を教えたからと言って
数学博士になるってことではないし、

数学を教えたわけではないのに数学博士になったというなら、
それは、「親が直接数学を教えたから」
などという短絡的な話ではなく、

親の自覚無自覚を問わず、
学ぶ楽しさとか、知ってみたいという意欲とか、
数学とは関係ないところで、
「教えてしまっている」からなわけですよ。

学術的な本がたくさん本棚に置かれているとか、
食卓の会話が知的な話題に満ちているとか、
環境全部の意味において。

 

というように、

親は、

「自分は教えていない」

などと「嘘」をつくよりも、

げっ!もしかしたら、自分の子供は天才的に、
 私の何気ない一言も感じ取って、
 真似し、覚えてしまっているのかもしれない!」

と、それこそ我が子を天才扱いすべきなのです。

 

なのに普段は、

「これもできない」
「あれもできない」

と、子供に対して文句と不満のオンパレードで、
まるで何もできないかのようにバカ扱い。

バカ扱いすれば、律儀な子供は
親の期待に応えてバカになるわけだけれど、

たまに、
「おっと、これではいけない」と親が反省して、
ガンバッテ♪
などと褒めてはみるけど、
それは、反省ごっこ的な、ただの表面的な表現であって、
本当のところは「嘘」だから、
ここでもやっぱり、子供は「嘘」を教えられるわけです。


子供にしてみれば、

何やら聴き慣れない
ガンバッテ♪
という、上手なテクニック的オブラートに包まれた嘘を
見せられることによって、
嘘だとバレないような巧みな術(すべ)を
目の当たりにすることになる。

そして、

ほーほー、ナルホドナルホド
(こうして巧みに嘘を使いこなすのか)。

と、学んでいくわけです。

 

百聞は一見にしかず

だしね。

 

 

親とのこのような毎日によって、

取り繕うことや、
嘘を巧みに「ホントらしく見せる」練習をする。


親の方は、
「そんなことを教えたつもりはない」
「私は正しい(はず)」
といくら正当化を試みたところで、

そして
どんなに気づかないとはいえ、

「嘘」があるのにないことにしようとするなら、

嘘の存在を放置していることになるし、
現実的には、「嘘」を主張していることが
事実となるのであって、

もう何度も何度も、

「嘘と気づかなければ強く主張しても構わない」

という「教え」を、
これでもかと繰り返していることになるのだから、

親がそのテクニックを使いこなす技術も、
子供がそれを覚えて真似る腕前も、そりゃ相当ですわな。

 

そんな技術を親子で高めてどーする?

 


そんな技術(テクニック)ばかり磨いたところで、
では、一体いつ
「ホンモノの実力を身につける」暇があるのか?

 

時間は有限なのだから、
コレをしているときに、アレをしている暇はない。

ハッタリ力を身につける練習が忙しければ
本当の実力をつける暇がなくなるのは必然。

だから、嘘の実力を高めるのに忙しい人は、
「実力不足のどーしよーもないヤツ」
が出来上がる。

これ常識。

だって、遊んでばかりで勉強しないなら
学力は落ちる、ってのは別段難しい話ではなく、
ごくふつうに皆が知っている常識なのですからね。

 

さてさて、現実として
こんな作品作り(人間育成)をしているのに、

「問題ない」

なんて言っちゃって大丈夫かしら?

と、心配しちゃうわけですが、

それでも「大丈夫」というなら、
それが嘘であろうとホントであろうと
その嘘を貫きたいという自由意志は
どこまでも尊重されるわけですね。

 

自由意志がどこまでも尊重される

ということで、少し大きい話をするなら、

戦争をおっぱじめても人を殺しても、
神様はいちいち干渉なさらない。

我々人間には、想像を絶するような心の広さで
自由意志を尊重してくださるわけです。

 

ですから、

親が、子供に嘘を教えようが、
子育てに失敗することくらい、
もう、それはそれは自由にさせていただける。

ありがたいことに。

 

その自由さにアグラをかいて、

「私は嘘つきじゃない」

と嘘をつき続け、

「私は正しい」と傲慢さを貫くのか、

「嘘」をやめて、
間違いを改める勇気を持って、

「ウゲー!間違いだらけじゃん!」
「問題だらけじゃん!」

と、

まともーに、フツーに

目の前の現実を見て、
それなりの対処に取り組み始めることを選ぶのか、

 

どちらを選ぶのか、ただただ「選択の話」
というわけです。

 

すこーし冷静に考えれば難しいことではなく、

間違いを改める勇気を持って、
改めるために現実を見る

ということなのだけれど、これって、

謙虚でなければできないことですし、
謙虚だからできることなのですよね。

 

改めるから「変化」できるのであって、
改めないなら変化はしないわけですけど、

改めるべき問題点を見ないと、

何が問題なのか、
どこに問題があるのかなんてわかるはずありません。

 

だから、「ちゃんと見てね。」

というハナシ。

 

「問題ない」

なんて「嘘」があるようでは
目の前に存在する問題に気づくはずもなく、
それで「改める」なんて不可能です。


なぜなら、

鏡を見もしないで上手にメイクできないのと同じで、

見もしないで、一体どこに手を差し伸べようというのか?
ということなのですから、
見もしないで問題解決できるわけないですし、

第一、
「見もしないでも問題解決できる」
とでも言うように自分を天才扱いしているなら、
それがもう、そもそもの大間違い。

(自覚がないとしても、大間違いであることが変わることはない。)

 

大体において、

大間違い

というのは、基本中の基本の

大基本

の間違いのことをいうのであって、
もうそこから先は

全部ダメ

というレベルのことを言うのです。

 

基本が間違っていなければ、
今日の間違いや失敗は、単に一つの経験であって
大きな問題にはならないのです。

だから基本が正しい間違いは、大間違いではない。

 

その違いを一切考慮することもなく、

「失敗も経験だ」などと

全部ダメ

の大間違いと、
経験としての有効な取るに足らない失敗との違いがわからず
一緒くたにするから、

「大丈夫でないもの」でも「大丈夫」
と正当化するような「甘え根性」、

つまり「傲慢さ」を育てることになるのです。


(そもそも「自覚ないから許してね」と言うこと自体甘え根性ではないか)

 

とにもかくにも、

改めることができる、
自分をより良くできる、というのは、
改めるべき問題点の詳細と正体を
明確にわかっているからこそなのです。

 

改めるべき問題を知らないまま
自分を成長させるなんて不可能なのです。


不可能なことに時間を使うなんて無駄でしかありませんよ。

 

「改めることが変化成長すること」

だけど、
嘘があっては、改めるべき問題を正しく発見できないために
改めることは不可能、イコール、成長できない。

 

要は、

嘘がある限り、成長は無理だからね

ということ。

 

このことがわかったところで、ようやく

「人間は変化を怖れる生き物」という話題に進みましょうか。

 

「さあ、早速わかったことを実践だ!」

「嘘を減らして、素直に正直に自分の姿を見ていくぞ!」

と。

そうすると良いことが起きるのかと思いきや、

思うよね?思いたいよね?そうであって欲しいよね?

 

ところが現実は厳しいの。

 

現実的には、

とにかく問題だらけ

なことに気づくことになります。

 

そりゃそうね。

今まで目をつぶって見なかったものを、
目を開けて見てみたら、色々なものが見えるに決まってます。

 

見えなかった分、
見ようとしなかった分、

つまり放置され続けた分、

もう無法地帯。

美しいはずないではありませんか。

 

ゲゲゲのゲっ。

やりたい放題、荒れ放題の無法地帯を見て愕然とする。

 

成長を目指して一歩踏み出したら、
そのご褒美に、美しく素晴らしい自分と出会えるのかと思いきや、

 

「なんじゃ、こりゃーーー!!」

 

 

はい、ここで、もう耐えられません。

 

「私はそんなに問題だらけな人間ではない!」

という嘘が再び始まり、ハイ、元の木阿弥。

 

「私はそんなに問題だらけな人間ではない!」

という嘘。

つまり正当化。

 

あらら。

せっかく、素直に正直になって改める=成長
の一歩を踏み出した途端、

再び「正当化」という嘘つく人間

という振り出しに戻る羽目に。

 

ということを繰り返し、
何年も何年も堂々巡り。

 

「先に進む勇気はないんかい!」

という話なんだけど。


ま、ないんだね。進む気なんて。

 

なぜなら、

人間は変化を恐れる生き物だから。

 

「人間は成長を望んでいる生き物だ」

なんて、勘違いしているようなら、
それは大間違いの大錯覚なのだから即刻
考える改めるべき

と警告でもしておきましょうか。

 

堂々巡りを

一体、何年繰り返してきたんだろう?

 

錯覚か否か、それはあなたの今の年齢が
物語ってくれることでしょうから、
ここであなたの年齢は問いたださない。
それはご自分で。

 

 

改めて、
「人間は変化を怖れる生き物」の話題に戻します。

 

生物というのは変化を望んではいけない

というのが基本です。

毎日変化していてはエライコッチャです。

 

なぜって、

例えば植物が、日々お引っ越しをしたり、
生えている土壌が、今日は海辺の砂浜だったり、
明日はアフリカの砂漠だったりと変化したら?

毎日夏が来たり冬が来たりの、天候の変化が著しいなら?

今日から毎日変化しましょう!と張り切っちゃったら
植物へのダメージは多大です。

人間にしても、
朝晩の温度差が大きいだけで体調を崩すこともあるわけで、
今日の気温は40度、翌日は氷点下10度、となれば、
簡単には順応できないでしょう。


つまり、人は、

大きい変化が理想だと望む割には、
大きい変化を嫌うという矛盾

を抱えているわけです。

 


「賢くなる」という変化

「スタイルが良くなる」という変化

「健康になる」という変化

「経済的に豊かになる」という変化

これらの変化は、いずれも望ましく、
人々の誰もが求めている理想的な結果であるように思いますが、
その実、
生物という生き物としての本能的な部分では、
変化の先にある理想的な状態を怖れているのです。

 

口では理想を語るが、
実のところ本能的には

怖れている

恐がっている

嫌がっている

のです。

 

 

どんなに口先で何か理想を語ったところで、

本能では怖れている、嫌がっている

にも関わらず、

これに打ち勝つほどの自信がありますか?

 

 

おっと、

「あります」

と即答しちゃったら、それも嘘でしょうね。

 

なぜなら、人間の未知の領域というのは
大きすぎるほど大きいのに、
分かっちゃったというスタンスではね。


それでは即答した瞬間、

「あ、分かってないな」

というのが露呈する。


無知丸出し

というのは、いつの時もあまり美しくない。

 

もちろん、
「分かっちゃった」と”口先”で言う分には問題ありません。
本気で、自分の中で分かったことにするわけでなく、
必死で分かろうとする努力を怠らないのなら。

ですが、「本能」のような未知の領域に対して

「分かっちゃった」

「だから打ち勝てる」

と、即答するようなスタンスでは、
考えが浅はかすぎて、答え方が安易すぎて
今日の話題からも問題外です。

どんな言い訳をしたにしても、
深い領域の前で即答できちゃうほど傲慢な人間でいるのは
やめた方がいい。

 

子供が天才的に親から学ぶように、
人間には、直接的に教えられたわけでもないのに、
いつの間にか覚えて、身に付けてしまうような
「未知の能力」のようなものがあるとしたら、

「それも分かっちゃった」

なんていうのも恐ろしくて言えないはず。

怖れずに言えちゃうのは無知の証。
相当恥ずかしい恥さらしな話。

 

だから静かに、もっと思慮深く。

 

人間は、

「未知の領域」や「未知の能力」
というワケのわからんものと密接に関わっているわけですが、

だけど、「未知なもの」なのだから、
それを怖がるのは当然のことです。

 

でも、

なぜ怖れるかって?
なぜ怖いかって?

それは、

未知への憧れや挑戦のその一方で、

この「未知の領域や能力」に対しての「畏れ」があるからです。

 

だのに、それとは無縁であり、無知であるから
恐ろしいことに傲慢でいられるのです。

 

「未知の領域や能力」とは無縁であるからこそ

子供の能力など信じることができず、

自分は正しいと言い切ってしまえるほど傲慢でいられ、

その恐ろしさと愚かさに気づきもせず、ノホホンと
「自分は正しい(つもり)」で生き続けてしまえるのです。


そうして親は、

自分の見える範囲のことだけ
=親が自分で信じられるものだけ
=自分の価値観だけ

で処理するのです。


「自分は正しい自分は正しい自分は正しい」

と声高に主張しながら。

 

もう、まるで

『自分は正しい宗教』

みたいにね。

 

その念仏の効果は、

「自分は正しいと思い込むことができる」

という意味で、ある程度有効なようではあるけれど、

言い換えれば、

「自分は正しい = あなたは間違っている」

と言っているのと同じこと。

 

「そんなことは言葉にしていない」としても、

無言の言葉で、子供の胸を突き刺している。

有言ではないけれど、無言で教えている。

 

いえいえ、
「自分は正しい = あなたも正しい」
と思っていますよ。

ということなら、
何も声高に念仏を唱える必要など
これっぽっちもないわけですけどね。

 

「そんなつもりはない」

と言って(正当化して)、

「無自覚だから許される」と言う甘えた根本思想を使って
自分自身を許すのは自由なのですが、

それによって、

無意識に子供の能力を潰している

のだとしたら、これは、

結構、おそろしいことで、

結構、罪なことで、

だからこそ、

無知は罪

といわれる所以となるわけです。

 

「そんなつもりはない」と自分を甘やかして大丈夫?

 

それに、

畏れ

を知らないのは、あまりに嘆かわしく愚かしい。


人間は変化を怖れますが、
変化を求められている生き物でもあるのです。


ですから、
愚かしさを放置して良い理由などありません。

子供の能力を潰しておきながら、
「気づかない」と言う愚かさを放置している自分を正当化するより
即刻、変化し始める必要があるのでは?

ただの植物なら変化を怖れるだけでいいかもしれませんが、
人間をやっていながら、植物レベルでは問題ではないかと。

 

あ、ここにも問題が。。

 

 

私たち人間は、

「怖れ」や「畏れ」の存在、
現実社会の複雑なカラクリ、
自分の中の気づかぬ嘘、
無意識レベルの正当化、

のような
自覚できない無意識レベルの大基本の大間違いに気づき、

「それらを乗り越えるだけの知恵と勇気があるのか?」

が問われているのです。

 

それを放置して、
その正体不明の存在に恐れおののくことしか知らないから、

「放置してしまう」という無責任さに罪悪感を感じる

ことになってしまうのです。

 

罪悪感を感じたくないから、

「自分は正しい宗教」にすがりつきたくなるのです。

 

自分が教祖の、自分一人が信者の新興宗教はやめて、

「乗り越えるだけの知恵と勇気を身につけよう」

という、新しい考え方に発想を変えてみては?

 

イライラを正当化したら、何か素晴らしいことが起きましたか?

 

私たちは、「人としての成長」という期待に
どれだけ応えられるかの挑戦をすべきです。

 

正当化し、嘘を存在させ続け、
不満と言い訳のオンバレードであっても
誰も死刑になりません。

いっそ、死刑にしてくれた方が、
真剣に学び始めていいのではとさえ思いますけどね。

 

ま、そんな人任せな無責任なことを考えるより、
現実的に現実に取り組んで、現実を改善し、
本当の意味で「成長した」といえる自分を創ること。

 

これこそ、私たちHEAPが目指していることでもあるわけです。

 

私たちは、このために、
バレエという訓練方法を使っているのです。


頭から足の先まで

己の心身の全てを自由にコントロールすること

を目指してね。

 

ただ動かすだけの運動やスポーツではなく、
自分を美しいものへと導くための訓練でもあるのですから一石二鳥。

 

また、

基本を繰り返すことで身につける心の強さ。

日々の鍛錬を怠らないことで得られる本物の自信。


どちらも

本物の美しさと、
自分をコントロールする自由
を手に入れるために必要不可欠なものです。

 

このような鍛錬の毎日を
バレリーナだけの特権にしておく必要はありません。

「貴重な一日を積み重ねて価値ある人生をつくる」

これは、

キレイゴトの中にはありません。

「がんばります。がんばります。」
という
「嘘の言葉の中」にあるものでもありません。

 

嘘でもなく、夢物語でもなく、

現実的に、実力ある人間形成を行う。

 

このことにしか、私たちには興味ないはずなのです。


そして、

HEAPとは、その訓練の場を提供している練習場であり、

クリエイティブな生き方、創造的な暮らし方を
「美しい生き方」と定義しています。

 

「美しいものを目指します」と言いながら、

嫉妬に塗りつぶされた汚れた心でライバルを妬み、
本心では人の足を引っ張ることを企んでいる。

少しできるようになったからと言って
感謝を忘れ、傲慢にも自分がエラくなったかのように
錯覚する愚かさにさえ気づかない恥ずかしい人間。

バレエに関わっていながら、
このような醜い心や傲慢さを実践しようとする
嘘八百の世界に興味はありません。

 

ありがたいことに、
今のHEAPには、そんな醜い人は一人も存在しない。

だから、皆心地よく自分の訓練に集中できるのです。

 

失敗とか間違いとかを責められる必要はなく、

通常なら放置される大間違いは
即座に指摘されて修正を加えられ、

自分を正しく美しくするために与えられている環境を
正しく、美しく活用してくださっています。


だからこそ、
この長い解説をここまで読んでくださっているわけで、

だからこそ、
その能力を秘めた素晴らしいHEAPメンバー、そして
それに関わる方々には、
より高度で、それぞれの素晴らしさに見合った学びへの

レベルアップという変化

を起こしていただきたいと願うのです。


 

バレエを習うから美しくなるのではありません。

バレエを正しく活用するから美しさが鍛えられるのです。

 

バレリーナになれるのは、本当に才能ある一握り。

バレリーナになるために躍起になって、
人間性を貶めるよりも、
バレエを正しく活用して、本当に素敵な人になることの方が
ずっと価値があると私は考えています。

そのためにバレエと関わっていただきたい。

 

素敵な人は、バレリーナになっても、バレリーナにならなくても、
人として成長しているのですから、

もう存在だけで美しい

わけですし、そんな素敵な人なら、どこにだって通用しますよ。

通用しない方がおかしいじゃありませんか。

 


自分の嘘と正当化の中でだけしか通用しない人間を
素敵というには(嘘が通用するには)、
時代は先に進みすぎています。

もう、そんなフェイクは通用しない時代です。

 

本当の訓練

必要な練習

正しい努力

という日々に、今日、一歩踏み出せるかどうか。

そういう変化を自分に与えられるかどうか。

自分がそれを明確に選べるかどうか。

子育てもバレエも、
成長の楽しみを感じながら日々の変化を喜べるかどうか。

 

HEAPでは、

本当の訓練
必要な練習
正しい努力

について教えています。


身体を整えるとか、
精神を高めるためのバレエだけでなく、

親たちの学びの場であるHEAPing Clubとか、
個人コンサルとか、

様々な「成長のための学びの場」を提供していますから、
その気があれば、落とし穴から這い上がる方法、
親として、人として、女性として、など
賢明になるための方法はいくらでも学べるようになっています。


もちろん、努力自体は自分自身でするわけですが、
道具も、正しい方法も持たず、
落とし穴の底で足掻いていることを「努力」というのは
「賢明だ」「賢明なはず」「賢明だろう」
と三段活用を駆使したところで、単に正当化にしかすぎず、
本当には賢明と言わないことくらいは知っておいても損はありません。

 

日々のイライラや苦しみは、
自分自身に起きているバロメータです。


言い換えれば心の悲鳴。

 

ないがしろにせず、しっかりと向き合ってくださいね。
それは自分を大切にするということでもあるのですからね。


引き続きしっかりとHEAPで学んで、
確実に美しさと賢さを身に付けてください。

 

HEAPでは、指導の通り行えば

人生もバレエも絶対大丈夫

ということしか教えていません。

 

逆らって、自分の主張を貫くのもいいですが、

「人生もバレエも絶対大丈夫」

と言えるものだけにしておきましょうね。

落とし穴の底から叫んでも、
あまり聞こえないことだし。。

 

何もしなかった日々は、
何もせずに歳だけくった一年をつくり、

嘘と言い訳の日々は、
嘘と言い訳が上手な人間をつくる一年となります。

 

「私はがんばっているのに」
という「嘘」が減りますように。

 

その「頑張り」は、

自分の、頑なな傲慢さを崩さない努力、
つまり「変化成長しない努力」に使われている
ということに気付けますように。

 

変化と成長の一日一日を積み重ねて、
自信を持って「成長できた一年」と言える結果を
2021年にもたらすことができますように。

 

素晴らしき一年のはじまりに。

 

2021年1月  
有限会社ヒープ・インターナショナル代表取締役
スタジオ・ヒープ エグゼクティブインストラクター
立 野 涼 子

 

 

 

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