「美しい生き方」とは?あなたのタイプはどちら?
久しぶりの話題として、
あらためて、
「美しい生き方」
について、考えてみたいと思います。
一体、何が「美しい生き方」と言えるのか?
あなたにとっても、頭や心を使うキッカケにしていただきたいですし、
「美しい生き方」について一緒に考えてみたいとも思うので、
ここであなたに質問させてください。
あなたは「上塗り派?」それとも「改善派?」
「上塗り派」とは、
クサいものに蓋をするタイプのこと。
クサいものがあったら蓋をして隠してしまう。
隠してしまえばこっちのもの。
蓋をして、蓋の上から綺麗に彩る。
ピンク色やゴールドやラメなんかで飾り付けちゃったりなんかして、
とっても綺麗。
なんなら金粉やら、純金やら、ダイヤモンドで飾り付けて、
わあお。なんてゴージャス!なんてビューティフル!
見た目は美しいのだもの、これこそ「美」よ。
これこそ「ポジティブ思考よ!」と自信たっぷり。
たまに、見る目のある人が現れて、
「あなたのそのゴージャスな蓋の下って、腐って臭ってきそうだわ。」
と正体を暴こうとする。
そうすると、
途端に顔が歪む。
「なんてこと言う奴なの!」
と、その人を嫌う。
なんなら憎む。
その人が鬱陶しくて、邪魔で仕方がない。
さて、
その「見る目のある人」ともっと会いたいと思うだろうか?
いやいや、
「会いたくない」に決まってる。 (いや、決まってるとはかぎらないね)
なぜ会いたくないか?
なぜなら、非常に不都合だから。
自分の不都合な「部分」を指摘するなんぞ、迷惑千万。
では、誰と会うだろう?
蓋の下の臭いなんて全然気づかない人。
蓋の装飾を見て、「わあ、きれい!わあ、ステキ!」
「あなたとお友達になりたいわ〜」
と言ってくれる人に違いない。
決して、蓋の下の臭いと腐敗に「気付いてくれる人」ではないのだ。
この上塗りタイプのことを、かなり昔のブログで私は、
トイレの掃除をするより、芳香剤を使うのが好き人
というような表現をした。
一方、
「改善派」
というのは、
芳香剤を使うより、トイレのお掃除をするのが好きな人のこと。
ニオイは元から断つ
的な。
芳香剤で嗅覚を誤魔化し、人間的感覚(能力)を鈍感にさせるよりも、
面倒だけど、大元から改善してしまおう、
というタイプ。
気づかずに「今日までクサいものに蓋をしてきた」、
ということに気づいた時からでいいので、
なんとか蓋をこじ開け、その腐敗をどうにかしようとする。
その臭いやら、おぞましい程の汚れを、なんとか綺麗にしようとする。
卒倒しようが、吐き気を催そうが、防塵マスクでも、ガスマスクでも、
ゴム手袋でも、ヘルメットでも、この際、鎧でも何でもおかまないなく、
とにかく、溜まりに溜まったヘドロを綺麗にしようとする。
汚れを何年も溜め込んで来てしまったなら、一気にお掃除なんて虫がよすぎる。
ほんのちょっとでもいいから。ちょっとずつ、ちょっとずつ。
1mm汚れを落としたら、1mm分、綺麗になる。
10cm汚れを落としたら、10cm分、確実に綺麗になる。
その間、
「上塗り派」は皆んなから、「綺麗!」「ステキ!」と
チヤホヤさせれているかもしれない。
「改善派」は、ドロドロしい汚れの中で
自分自身がひどい臭いを発しているかもしれない。
その反面、
「上塗り派」は、いつか蓋の下の臭いがバレるかもしれないと
気が気ではなく、不安と、罪悪感に苛まれているかもしれない。
付き合う相手は、不都合な「見る目のある人」ではなく、
「見る目のない」自分にとって都合の良い人ばかり。
「見る目のある人」を嫌い、避け、なんとか自分の蓋のメッキが
剥がれないようにと、そのことにエネルギーを使い続けるかもしれない。
言い訳の常套文句は、
「だって、このダイヤモンドは本物でハートアンドアロー。
しかも、トリプルエクセレントで透明度は勿論フローレンス。」
「だから私は本物志向なの。」
「改善派」は、いつか自分の蓋の下のお掃除が綺麗に仕上がった時、
正々堂々と生きられる、新しい自分自身を楽しみにしているだろう。
汚(けが)れがなく、自信たっぷりな未来の自分に向かって
今日も自分自身を信頼する力を少しずつ増やしていることだろう。
その「未来」は確実で、それほど遠いことではない。
今はドロドロでも、いつか綺麗になる日がやってくることを信頼してくれる
「見る目のある人」「本質のわかる人」と共に、希望に向かって進むかもしれない。
必ずや蓋の下のお掃除が仕上がるだろうことを信頼し、
「信頼する力」「希望に向かって進む力」を日々鍛えることになるだろう。
お掃除をしようと思ったら、汚れをよく見なければならない。
目をつぶっていては、どこに汚れがあるかわからなくてお掃除は進まない。
だから、よく汚れを見て、どんな風な汚れなのか、どんな方法だとこの汚れが落ちるのか、
汚れの本質も、その対処の仕方もわかるようになるだろう。
たくさんお掃除すればするほどお掃除上手にもなり、その手際の良さも鍛えられるだろう。
さて、この二人、
どちらが、マイナス人間で、どちらがプラス人間だろうか?
マイナス人間とは、
マイナス感情、マイナスエネルギーをたくさん持った人のことで、
プラス人間とは、
マイナス感情、マイナスエネルギーを極力減らすことのできる人のことである。
決して、
マイナスに焦点を合わせて心の垢を落とそうと努力している人が「マイナス思考」で、
自分のマイナス部分をないことにして、
自分のプラス部分しか見ないように努力しているのが「プラス思考」ではない。
どれほど、傷や汚れを「ないことにして」も、
有るものは有る。
存在するものは確実に「在る」。
確実に「ある」ものを「ない」と言い張るのは自由だけれど、
いつまでも言い張るとしたら、
頭がおかしい。
あるものはあり、ないものはない。
普通は、「それが当然」ということになっている。
「あるものがない」って。。
そこに犬がいて、それを「いない」と言い張る。
そこに女の子がいて、それを「いない」と言い張るとしたら、
これは、賢さなのか?
どんな表現を使っても構わない。
「いない」と言い張ってもいいし、
それを「賢さ」だと言ってもいい。
だけど、「真実」は、どちらなんだろう?
「どちらでもいい」のだろうか?
それを「自由」と言っていいのだろうか?
「上塗り派」と「改善派」
どちらが
「美しい生き方」をしている「美しい人」
と、あなたは考えるだろうか?
あなた自身は「上塗り派?」それとも「改善派?」
「美しい人になりたい」
という願いに、「矛盾」はないだろうか?
「美しい人になりたい」のであれば、
「美しい人になること」をすれば良い。
「美しい人になりたい」と願いながら、
「美しい人になることをしていない」としたら、
それは矛盾である。
「美しい人になるコト」を日々実践することを
私は「美しい生き方」
と呼んでいるのだけれど、
あなたと私は、考え方が異なるだろうか?それとも同じ価値感?
あなたは、汚れを放置している人を見て、
「美しい生き方」をしている人と認めることができるだろうか。
「上塗り派」と「改善派」
改めてお尋ねしますね。
あなたは、どちらが「美しい人になること」だと思いますか?
「美しい生き方」
って、そんなに難しいことかしら?
矛盾をやめる
結構、シンプルだったりするんじゃないかと私は思っています。
この話、
実は、
「蓋の下」が、あなたの潜在意識のこと。
「蓋」をするかどうかは、あなたの顕在意識で決めること。
蓋をしたままお掃除はできない。
まさか、蓋を開けて臭いが出てくるのにお掃除もしない
という勇気はないと思うから、
蓋をしてお掃除をしないか、
蓋を開けてお掃除するか、
たった二つに一つの選択でしかない。
潜在意識のことが、今ひとつよくわからなかった方、
これが潜在意識の仕組みです。
蓋をし続けてきたのだとしたら、
蓋の下のことが見えなくても仕方なかったというわけです。
世の中は、蓋をすることをたくさん教えてはくれるけど、
蓋を開けて、「蓋の下を綺麗にすること」は何のこっちゃわからんから
誰も教えてはくれません。
親からも、学校からもそんな話、教えてもらったことは私はありません。
なぜ、教えてもらう機会が殆ど皆無であるかというと、
世の中的には、
「見えないことは存在しないこと」
に、してしまった方が、都合が良いからです。
「見えないけれど存在すること」
は、説明が難しい。理解できる人も数少ない。
一律の教育がほぼ不可能。
「見えない」ことを語って「オカルト」扱いされるのが怖い。
理由は色々です。
だけど、そんなことを言っていられなくなりました。
なぜなら、
美しくなりたいと言いながら、美しくない人で溢れかえって
そのギャップと矛盾に苦しむ人が増え過ぎているからです。
二極化の時代に、どちらに属するのか選択を迫られ始めているからです。
お金の問題で困っているのに、
お金の問題を解決しようという「美しい考え」を使うことすら
すっかり抜け落ちている人が多すぎるからです。
お金についての根本を「改善」するのではなく、
根本には目を向けず、「上塗り」で何とかやりくりすることばかりしか
知らない人が、どんどん増え続けているからです。
心の中の矛盾は葛藤を生み出します。
矛盾という「ギャップ」「ズレ」があるわけですからね。
「調和」「一致」がないわけですからね。
心の中の葛藤は、心の中の戦争です。
「あっちとこっちの言い分」が存在しますからね。
心の中の戦争がやめられないから、人間は戦争をしてしまうのです。
心の中に「在る」ものが、外に現れ出てきているだけなのです。
「在る」ものを「ない」ことにしようとするのが矛盾です。
心の中の矛盾を抱えたまま、「平和主義者」だと言ったら
嘘つきになってしまいますね。
心に葛藤があるなら、「戦争主義者」だと言わなくては
正直者ではなくなります。
「嘘つき」で、しかも「戦争主義者」だなんて嫌じゃないですか。
「美しい生き方」を考える資格さえなくなりそうじゃないですか。
だから大急ぎで矛盾を減らし、葛藤を減らす必要があるのです。
戦争をしている人の顔は、美しくありません。
美しくあって欲しくありません。
だって、見習いたくなる人が増えると困るもの。
だから、ちゃんと見た方が良いと私は思うのです。
蓋の下を。
最初は、何にも見えないかもしれません。
そんな存在に気づきもせず生きてきたなら、なおさらです。
だけどですよ、
ちゃんと見たら見えてくるものなのです。
だって、「在る」のですから。
だって、自分のものだもの。自分の「器」のことだもの。
ちゃんと綺麗にする術があることが嬉しいじゃないですか。
自分の「器」を自分が綺麗にしないで、誰がしてくれるというのでしょう。
「ない」という判断は、「ちゃんと見た後」にすべきじゃないでしょうか。
ただし、
お掃除したこともないのに、綺麗であるわけありません。
汚れが「ない」ということがあるでしょうか。
今日まで生きて来て、心が「傷ついたことがない」なんてことがあるでしょうか。
汚れている自覚がないのは鈍感になっているだけかもしれないのです。
生まれてから今日まで、
手を洗ったことのない人の手が、綺麗であると言えないのと同じです。
生まれてから今日まで、
「蓋の下」のお掃除をしたことのない人の潜在意識が
綺麗であるわけはないのです。
そう思った方が良いのです。
なぜなら、その方が「綺麗にしたくなる」から。
既に綺麗だと思いたい気持ちをぐっとこらえて、
「あ、すっごい汚れちゃってるかも」
と思う方が、素直だから。
既に綺麗だと思ったら、途端にお掃除をサボりたくなっちゃうから。
人の心は、とても繊細です。
ちょっとしたことに、意外と大きくショックを受けていたり、
誰かのちょっとした一言に、思いのほか傷ついていたりします。
その「傷」一つ一つが癒されないまま、
癒されないがために「傷」という「汚れ」となって、
毎日毎日、堆積していっているのです。
だから、お掃除をしたことのない人は、
「自分は美しい」
と嘘つきになることは遠慮した方が良いのです。
「こんなにも汚れちゃって、これから綺麗にしてあげるからね。」
と優しい気持ちになった方が良いのです。
だって仕方ないじゃないですか、
誰もそんなお掃除については教えてくれなかったのですから。
たくさん傷ついてきたからこそ、
今頃になって、その傷がズキズキ疼いているのかもしれないのですから。
だからといって、これからもお掃除しなくてもいいかどうかは別問題。
「自分は美しい」と嘘つきになる代わりに、
「自分はお掃除をしたことがないから、お掃除をして綺麗になろう」
と素直に正直に思えば良いのです。
簡単なことです。
お掃除の仕方なのだから、習えばいいのです。
上手なやり方と、ヘタクソなやり方があるのだから、
上手なやり方を習った方が良いでしょう。
蓋を開いてもいないのに、蓋を開けているつもりで、
お掃除が進んでいるつもりの「夢遊病者」のような人も多いので、
それもやめた方が良いと思います。
お掃除とは、必ずやったらやっただけの成果が出る、
「確実なもの」
です。
そこが嬉しい。
お掃除をしているのに綺麗にならない
というのは、
きっと夢の中で「お掃除をしている気になっているだけ」
なのでしょう。
ちゃんと手を動かして、頭を使って、
よく考えれば、どんどんお掃除は進みます。
お掃除が上手になれば、
必ず美しく綺麗に仕上がっていくのです。
それはそれは気持ちの良いものです。
完全に綺麗にならなくても、昨日より汚れが減った
というだけでも、気分が良いものです。
完璧に汚れが落ち切らなくても、
「日々綺麗にしている」という「毎日のそのもの」が、
「美しい生き方」
と呼べるのではないかと思うのです。
あなたは、
「上塗り派」と「改善派」のどちらを選びますか?
これはあなたの「好み」で決めて良いのです。
あなたの人生ですからね。
あなたのお友達は、どちらが好みだと言っていますか?
「美しい生き方」をする「美しい人」が増えるといいなと思っています。
だから、「蓋の下」のお掃除の仕方を覚えていただいているのです。
こんな確実な方法なら、使う方が賢明だと思うからです。
「蓋の下」の「自分の器」が綺麗になっていくと、
心が軽くなる
という自分の中から感じる実感もそうだけど、
顔色とか、目の輝きも「透明感」が増していきます。
だから見た目にも、「美しい人」になっていきます。
「美しい生き方」をしているのですから、
美しくなって当然といえば、当然かもしれませんね。
そうして、自分自身の中からの「改善」に取り組んでいる方は、
自然と、謙虚さも身につけていきます。
なぜなら、己の「真実」に真摯に向き合っているのですから、
傲慢に自分の主張に執着し、
「ある」ものを「ない」と言い張っているのとは異なって当然です。
「謙虚になろう」と自分を偽って「上塗り」するよりも、
だんだん謙虚になっている
という必然的な結果が、自然で美しいと私は思います。
謙虚風に演じている姿には、あまり魅力も感じませんし、
何よりその「頑張ってる姿」が痛々しく、むしろ美しくないと思ってしまいます。
あなた自身の「美意識」は、どういうものでしょう?
「美しい生き方」
について考えるキッカケに、そして、
あなた自身が、もっと美しくなるキッカケになれば嬉しく思います。
女性ならもっと美しく。
男性だって、もっと美しく。
美しくする場所を間違えないようにと願っています。
お友達にも
「美しい生き方」について一緒に考えていただきたい
と願うなら、こちらのURLをコピーして紹介してあげてください。
ご感想などは、こちらへどうぞ。
mail@heap-int.com
涼子
コメントを残す