自分育てと子育ての「両方」を成功させる
我が子(と自分自身)を「賢く育てたい」と思いますか?
素直に「イエス」と思うなら、子供を賢く育てましょう。
我が子(と自分自身)を「美しく育てたい」と思いますか?
素直に「イエス」と思うなら、子供を美しく育てましょう。
ところが、
せっかく素直に「イエス」と願っているのに、
自分の思った通りの子育てができない。
大事な時に限って言う事を聞いてくれない。
本当にこの子育てで大丈夫なのかと不安になる時、
親にとっての問題は何かというのは、
「どうやって賢く美しく育てることができるのか」
この問いに、
明確に答えることができていないということです。
そしてその理由の多くは、親の「勉強不足」です。
「「え?!厳しいのでは?」」と思っても、それが現実なら仕方ありません。
その事実を改善し、本当に価値ある子育てをしたいと願うなら、
この大事な問題に向き合うことこそ、価値ある教育というものです。
また、それこそが真の「愛情」というものです。
どんなに大きな愛情があっても方法を間違えているとしたら、
欲しい結果を願うのは残念ながら「的外れ」です。
何故なら、
「そもそも結果に向かわない方法」
なのだから。
どんなに愛情が深いと主張したところで、
バレリーナになるために、
体力をつけて身体を鍛えようとプロレスの方法を使っても、
決してバレリーナになれないのと同じように。
更に恐ろしいのは、この「勉強不足」を補うのに用いる方法が、
親の「自己流」
という事実。
想像してみてください。
空を飛ぶはずのツバメに、一生懸命泳ぎを教えようとしたら?
親に愛情があるからといって、このツバメは、最高の泳ぎができるようになるでしょうか?
ツバメ自身の才能を十分に発揮して、自信を持って美しく泳ぐスイマーになれると思いますか?
ツバメの能力を見間違えたまま
「速く泳げるようになってほしい」という親の希望が優先された「自己流」だとしたら・・。
そもそもこのような「基本部分」で見間違っているのですから、
いつまでたってもツバメは水泳選手として活躍できるようにはならないでしょう。
ツバメ自身も空を飛ぶ選択肢を与えられずに日々を過ごしているのですから、
自分が飛べることにすら気づくことができないかもしれません。
これは、怖い言葉を使えば「洗脳」です。「教育」という名の。
勿論、親は「洗脳する」なんて、そんなつもりはありません。
「そんなつもりはない」にも関わらず的外れな方向へ行ってしまう。
これこそが「勉強不足」といわざるをえない理由です。
そもそも、
「自己流」を使えば、
クラシック・バレエという伝統を正しく受け継いで
正しいクラシック・バレエが踊れるようになるでしょうか。
「自己流」を使えば、
英語や数学で良い成績を出し、試験にもすんなり合格するでしょうか。
「自己流」を使えば、
体操選手は、オリンピックで最高の成績をおさめることができるのでしょうか。
「そんなつもりはないから」
と言って、教育と洗脳の違いもわからないまま、
子供を犠牲にしてはいないでしょうか?
「自分には愛情があるから」
と「正当化」して「勉強不足」を改善させることもせず、
「賢く美しい子育てができる」と自分に言い聞かせて良いものでしょうか。
本来、「自己流」とは、
たくさんの失敗を含む多くの経験と、
人間が何を思い、何を考え、何を改善し、何に向かうべきなのか、
という「基本」と「真理」への理解に基づく先に生まれる
「守破離」の「離」の域に達してはじめて「創造される」
「努力と知性の末の賜物」
であるべきです。
未熟な親が「勉強不足」のまま、
自分の感情を最優先させる「勝手な思い込み」
とは、全く異なるのです。
後者の「自己流」を押し通すべきではありません。
なぜ、人間は生まれなければならないのか。
人間は生きている間に何をしなければならないのか。
その明確な答えも持たず、また、
子供が、どんな能力を秘めているのかもわからないまま、
親の期待という「勝手な思い込み」である「自己流」を
押し通したところで、
「どうやって賢く美しく育てることができるのか」
に対する明確な方向性は見出せないでしょう。
このように、自分自身を改善させることもなく、
「自分は誰よりも子供を愛している」
という常套文句による隠れ蓑、
すなわち、
「親の勉強不足を正当化する子育て」は、
賢くも、美しくもない子育てにしかなりません。
なぜなら、その親の自己流そのものが、
賢くも美しくもない「非創造物」だからです。
それでは美しく創造された末の、美しい芸術作品とは言えないのです。
それは、ただ親の都合を優先させた、その場しのぎを積み重ねた挙句の結果
であることもしばしばです。
これは、「美しい創造」という芸術的行為ではなく
賭け事です。
「子供が良くなるかもしれないし、良くならないかもしれない。」
という、一か八かの賭け事です。
子育てを賭け事にすべきではない。
私は常々そう考えていますし、親である皆さんへも
そのような方針で指導にあたっています。
第一、そんな恐ろしい賭け事でいいのでしょうか。
見えない不安が募って、親のストレスが蓄積し、
それを子供にぶちまけて子供に無用なプレッシャーを与える。
時に、堪えきれなくなって溢れ出てくる負のエネルギーにより子供を怒鳴り散らす。
こんな親たちの現実は、
子育てが、
自分のコントロール外の、不安な恐ろしい賭け事になっているからです。
そして当然ながら、
私たち大人自身が、その犠牲(親の賭け事の結果)になっている場合もあるのですから、
このための「改善」は、
親が子供のためだけに考えるものではなく、
大人が、自分自身のためにも考えるべき「自分自身への教育」
でもあるのです。
子育てを賭け事にすべきではなく、
どこに向かっているのか明確な方向性を持って進むべきなのです。
どこに向かっているのか明確な方向性を持っていないというなら、
学ぶべきなのです。
親は子供のために、
自分は自分のために。
いい加減でテキトーな賭け事では、勝つことはとても難しい。
目指す方向性も、ルールもよく分からないで、
ラスベガスのカジノで勝ち続けるなんてことはどう考えても不可能です。
カジノですら不可能なのに、
目指す方向性も、子育てのルールもよく分からないで、
どうして子育てだけは、成功すると思えるのでしょうか?
そうだとしたら、あまりに無謀だと私は思います。
ルールもわからないでカジノで勝ち続けることが不可能なら、
子育てのルールもわからないで子育てを成功させることは不可能なはずです。
あまりに無謀な親たちを見ていて、黙っていられないために、
私は、HEAPという世界をつくり、HEAPの世界観を共有し、
自分と子供がどのように育ち、どのように才能を摘み取られているのか、
解説してきました。
どうして強い自信を持てないのか。どうして苦しみから解放されないのか、
もうこれ以上考えたくないほどに複雑に絡んでしまった糸をほどくお手伝いをしてきました。
「誤った自己流」の弊害が、
いかに、賢くも美しくもない、貧しい人間をつくってしまうか説いてきました。
多くの大人は、
いつしか気づかぬうちに、すっかり一般常識の犠牲になっていたり、
親の愛情が、実は微妙な洗脳と化して、自分自身の足を引っ張っていたり。
そんな「自分たち」を、自分たちで改善すべきだと言い続けています。
自分を自分で改善できるようになった大人は、
当然のように、我が子のことも理解できるようになっていきます。
親だけでもなく、子供だけでもなく、
親も子も同時に成長していけるのです。
自分の中で起こっている複雑に絡み合ってしまった仕組みと洗脳についての解説を聞いて、
私の指導を受講された皆さんは、
「ああ、だから、自信が持てなかったのかあ〜」
「ああ、どうりで、自分自身を好きになれなかったはずだ〜」
と、自分自身への理解が深まり、
次なる改善の道が見えて、「スッキリした」と
自分自身を教育し直す楽しみを見出してくださいます。
親が育つとき、子供が一緒に育つのは、
一石何鳥にも匹敵する「この上ない価値がある」と考えています。
親が育たないとき、子供も育たないという事例も、
嫌という程見てきました。
子供が親の犠牲になっている姿も、恐ろしいほどの数見てきました。
自分自身が親の犠牲になっている現実も、いやというほど目の当たりにしてきました。
皆、
「自分は素晴らしい親である」と思い込んでいる(いたい)。
「自分の親は素晴らしい」と思い込んでいる(いたい)。
なぜなら、その親から育てられた自分は「素晴らしい」と思いたいからです。
勿論、それはそれで構いません。
本当に素晴らしいこともあるのですから。
ですが、改善すべき「部分」、改善することが成長である「事項」まで、
ひとくくりに「素晴らしいことにしてしまう」のは問題なのです。
それでは、それ以上の成長がなくなってしまうから。
それでは、負のエネルギーが軽減されるチャンスがなくなってしまうから。
それでは、
日々の不満と、不安を募らせているにも関わらず、
「自分は素晴らしい親である(はずだ)」
という考えを変えようとしなくなってしまうから。
これらのスパイラルにはまってしまっている多くの人々は、
「本当のところ」を認めることへの恐怖におののいています。
恐ろしいほどに正当化の実力ばかりを向上させています。
子育ての成功は、「自分自身の成功」と比例するものです。
子育てという「人間の創造」ほど美しく素晴らしいことはありません。
ですから、
自分育ての成功という創造活動は、当然のことながら、美しい芸術活動です。
私は、それを、
「自分自身の人生を芸術作品にする」
と呼び、共感してくださる皆さんと、もう既に相当に長い年月、共に進んでいます。
私たちそれぞれは、子供がいるいないに関わらず、
「育てる」ことを成功させるべきであるはずです。
まずは、自分自身を。
なぜなら、
我々人間は「成功するべき存在」であり、
「自分自身を育てることは可能」だからです。
そしてそれは、
「生きている中でしたいこと」
であるはずだからです。
素質もあり、可能でもあるなら、
「成功して当たり前」「素晴らしく育って当たり前」
であるはずだからです。
「成功しない」「素晴らしく育てることができない」
というのは、相当な勉強不足か、怠慢か、あとは傲慢さかもしれません。
「成功しないかもしれない」
「素晴らしく育つことは稀である」
こんな「洗脳」にいつまでも浸っている必要はないはずなのです。
「成功」の定義については、様々でしょうが、
何より、「心から納得のいく人生」であることが
誰にとっても共通のものであるでしょう。
そして、
自分の持っている「何か」を最も発揮している
と思えることが。
心のどこかで納得していないのにも関わらず、
「納得のいく人生」と自分に言い聞かせ、自分を洗脳することではありません。
「心から」
納得のいく「本当のこと」だけが「本物」なのです。
心のどこかに、何らかの引っかかりがある時、
本当に「心の底からハッピー」とは言えないはずです。
その状態を、「本物」と言うことは、自分自身を偽るようで、
かなり無理があるはずだからです。
自分に嘘をついて、納得いかないものを
納得いくことにしても仕方ありません。
「心の底からハッピー」と言いたいけれど、
実は「心の底からハッピー」とは言えない。
と言うのが本心であるなら、
「心の底からハッピーとは言えない」というのが「本当のこと」です。
これが素直さであり正直さです。
自分への嘘をやめない限り、「本物」への道は始まらないのです。
我が子を「賢く育てたい」と思うなら、子供を賢く育てるべきです。
我が子を「美しく育てたい」と思うなら、子供を美しく育てるべきです。
「その方法が分からない」というなら、
「その方法が分からない」と素直に白状すべきです(心の中で)。
その素直な心の準備が整ってから、次に、その方法について学べば良いのです。
準備が整っているつもりで、新しい教育方針を受け入れる素地もないまま進むんでも、
努力は水の泡にしかなりません。
自己流を貫きたいという見えない欲求を捨てきれずに進もうとしても、
既に自分の内側に「偽り」があるのですから、
子育ても、自分育ても、「偽り」の土台に立つ「偽り」の建造物でしかありません。
「嘘」はやめなくっちゃ。
「嘘なんてついてない」という「嘘」にも気づかなくっちゃ。
「二極化の時代」という言葉もすっかり定着しつつある今日この頃。
「本物か偽物か」
「成功か失敗か」
「美しいか醜いか」
「豊かか貧しいか」
「正直か嘘か」
全て前者に属する自分であると、根拠のある自信を持てるよう
学びを続けてまいりましょう。
あなたにぴったりの方法があるのですし、
あなたの子供にぴったりの
「賢く美しく豊かに育つ方法」があるのです。
たった「勉強不足」という理由で、
その存在を知らないまま生き続けるのが、
どれほど素晴らしい理由があるのか、私にはわかりません。
本当に納得のいく方法でもない「自己流」に執着するのも
もうそろそろ飽き飽してきてもいい頃ではないかと思います。
私としては、1000人を超す「自己流にこだわりたい人々」を見てきたので、
「自己流」にこだわりたい気持ちは、わかりますが、
誰一人として、その方が素晴らしいとも素敵だとも思えず、見習いたいとも思えません。
素晴らしい、素敵だと思うのは、
「自己流」の壁を打破して、次なるステージへ向け、
自分自身を改善、改革しようと試みる、勇敢な仲間たちの方です。
今の自分を良しとしようと躍起に正当化を上達させる人よりも、
まんざらでもない今の自分を、敢えて否定し、
もっと素敵な、もっと素晴らしい人物へと自分自身へ挑戦する人に
どうしても魅力を感じてしまうのは、私だけではないはずです。
保身ばかりにエネルギーを取られ、
成長のエネルギーをすっかり消耗しているのは、
自分を美しい芸術作品にするための創造的な場(仲間)を持っていないからに他なりません。
人間は環境の生き物ですから、環境が基本です。
環境を整え(仲間を持ち)、
本物を追求する美しい心を持ち、
本物が何かを学び語り合う場を持つこと。
そんな環境にいながら、成長しないということは、
逆にありえないことなのです。
ツバメが、空を飛ぶ仲間たちと、より高く空を飛ぶことを語り合うのは、
「なぜ、こんなに水の中を泳げないのだろう?」と悩むより、
ずっと、楽しくて価値あることだと思います。
しかも空を飛ぶことは、本来、できて当然のこと。
同様に、あなた自身が、
賢く美しく豊かになって当然
という場に身を置くことです。
そうすれば、あなたの子供さんだって、
賢く美しく豊かになって当然
であると私は考えています。
賢く美しく豊かになることは、全然、特別なことではないのです。
それなのに特別視して、
自分から随分遠ざけるのはやめてあげてくださいね。
それにしても、
どうして、あなたがそこまで心を閉ざすのか、その理由を知っていますか?
どうして、ついつい気持ちが緩んだり、沈んだりするのかその理由を知っていますか?
「そうなる理由」
が必ずあるのです。
その理由を理解してあげてください。
そうすれば、
あなた自身のことがわかり、あなたの子供さんのことがわかり、
その理解の先に、更なる「本物の優しさ」が
あなたの中に秘められているのがわかるでしょう。
私は、その「本物の優しさ」に興味があり、
あなたの中の「それ」を引き出すのが私の仕事であり、
あなたの中の「本物」と関わるのが大好きなのです。
私は、「それ」が必ず誰の中にもあって
引き出されるのを待っているのを知っていますから、
「あなたの本当」を信頼するのは、難しくありません。
「先生のおかげです。ありがとうございます!」
と言ってくださるのは嬉しいことだけれども、
決して私の手柄などではなく、
「持っているのだから、出てきて当然」
なのです。
ツバメが空を飛べて当然であるように。
時々、随分とシャイで、なかなかその本領を露わにしない
奥ゆかしすぎる方もありますが、
本人が傲慢にも今の自分を優先させて、新しい自分の出番を妨げない限り、
必ずワンステージアップした「本物」と出会うことができるものなのです。
その素晴らしい価値に自信があるからこそ、HEAPをこんなにも長く続け、
これからも続けていくことができるのです。
自分自身が自分自身を乗り越えていく。
「教育」という、これ以上の価値が、この世にあるのでしょうか。
経験がなければ、その素晴らしさもわからないかもしれません。
だったら、これから経験すれば良いことですね。
しかも、自分の本物を磨き、人生を芸術作品にする
という実践は、終わりがないですから、ずっと楽しい。
自分の中から「本物」を引き出して、その宝を磨き始める時期を、
早めるか遅めるかは、自分の選択次第。
誤解を恐れずに言えば、
人のこと(子供のこと)は、どうでも良いのです。
自分自身が、本物で、美しくて、賢ければ、
あなたに関わる周りの人々(子供)も、同じようになるのですから。
自分に集中しましょう。
もっと賢くなりましょう。
もっと美しくなりましょう。
理解不足があるなら、素直に学ぶことです。
「素直ぶる」のではなく、「本当に素直」に、です。
素直に学べるよう、自分自身を信頼してあげることです。
私はあなたの成長を信頼しているのに、
あなたがあなた自身を信頼しないというのはおかしなことですからね。
数学の勉強不足は、数学を目指さない者としては仕方ないとしても、
人生の勉強不足は、人生を創る一人の人間としては、かなり問題。
「親」という仕事を引き受けたからには、
自分と子育ての両方を成功させる勉強不足は言い訳になりません。
「自分自身の人生を芸術作品にする」
その芸術作品を創造する芸術家(アーティスト)としての自覚と誇りを持って
美しい自分自身に磨きをかけましょう。
手を抜くなら、あるいは「磨いているつもり」で実際には磨いていないなら、
「磨かれた美しい自分」はただの夢遊に終わりますからね。
美しい心についても理解を深め、
「美しい心の創り方」のルールについても学んでください。
創られていない想像レベルの「思い込み」と
実際に創造された(磨き上げられた)本物の「美しい心」は、
全く別物であるという理解と共に。
立野涼子
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