強烈に印象深かった言葉
- By Ryoko
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以前、
確か有名な建築士だったか、
デザイナーとやらの話に、
強烈な印象をもったことがあります。
と、
その強烈な言葉の話題の前に、、、
建築士にしろ、
デザイナーにしろ、
あるいは、
そういう職業に限定せず、
私たち人間というのは、
何かを表現する生き物であることに
違いないでしょう。
例えば、
お母さんが子供に、
「献立は何だった?」
と尋ねて、
子供が
「だいちゃんが、ラーメン食べたんだって」
と答えたとする。
どちらも、表現者として、
何かを表現している。
お母さんは、
学校給食の献立を尋ねたのに、
子供は、お友達が何を食べたか答える。
このようなすれ違いは、
日常で、
頻繁に起きているのでは?
特に、相手を“わかったつもり”
の関係の中では危険である。
なぜ危険かといえば、
もちろん、傲慢さが勃発するからである。
「私は、相手を分かっている」
「相手は、私を分かっているはずだ」
「私は間違ってはいない。ミスもない。=思い込み」
これでは、謙虚さも、注意深さも
持てなくなっても仕方ない。
受け手(子供)の側が、
話し手(お母さん)が、
何の話をしているのか確認もせず、
真意もわからず、
自分が話したいことを話す
ということがすれ違いの原因だし、
お母さんが、何の献立の話を知りたいのかを
表現できていないのも原因である。
このように、
表現とは、
安易な考えの上では、
とても難しくなってしまうもの。
これでは、コミュニーション
など、あったものではない。
この状態で、
「自分はコミュニケーションを大事に考えてる」
などと言おうものなら、
“大ウソ”
ということになってしまうではないか。
それなのに、
お互いが、
自分は正しい、
相手の表現が悪い
とののしれば、
喧嘩にしかならないのがオチであろう。
信頼関係など、
築きたくもないかのような“実践”
みたい。
そうやって、
表現
というのは、様々な場面で、
重要な働きをもっているもの。
そして、それは、
表現を職業にする人たちだけが
考えればいいということにはならない
と思う。
そこで、
世に認められている
表現者達の言葉を参考に思い出す。
私が強烈な印象をもった
というのが、
「耳から血が出るほど考える」
という言葉である。
かなり昔に聞いた言葉であるが、
私は、
それを聞いて
自分を恥じた。
「うわ、血が出るほど考えてないな」
と。
「自分だって、がんばってるわ」
などと、正当化するのは簡単であるが、
私は、その逆に、
めちゃくちゃ、自分を恥じることを
選んだ。
恥を知れば、
平気でその上に
あぐらをかくわけにはいかなくなるから。
お陰で、
今では、6時間も、7時間も
ぶっつづけで書いたり、考えたり
しなくてはならなくても、
別段、文句のひとつも出てこない。
脳みそがちぎれそうになっても、
「耳から血が出そう」
には、ならないから、
「あ、まだまだだな」
と思うだけである。
脳みそは
甘やかすと、いくらでも甘えてくれる。
正当化のクセがつくと、
その実力は、
想像以上に加速度的についていく。
そのくせ、
本当の実力をつけるなんて挑戦は、
まあ、雀の涙ほどにしか
実感がわくものではない。
だからって、目先の利益(結果)に目がくらみ、
正当化が上手になって、
自分の頭が良くなった錯覚に陥ったところで、
人間としては、むなしいだけである。
だからやらない。
雀の涙ほどの結果でもいいから、
本当の実力をつけたいと願う。
よく考えて表現をする。
よく考えて正しく表現を理解する。
頭を正しく使う、
その大切さを肝に銘じたいと思う。
敢えて意図的な表現であるならともかく、
「そんなつもりはなかった」
などという無責任な言葉で、
人を傷つけたまま言い逃れしよう
というのは、通用しない。
相手の真意もわからず
自分のいいたいことだけ言う
というわがままさも、
大人げない。
良く考え、善く生きる。
そんな世の中になるように、
私自身も、
その世の中をつくる一人でいられるよう、
良く考え、善く生きる挑戦を
続けなければなりませんね。
「耳から血が出るほど考えたか?」
今日もまた、
自分への問いかけをしてみようと思います。
勿論、考えることは、破壊の企みでなく、
表現を含む、創造と構築の為にね。
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