真の賢者を目指そう!
- By Ryoko
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ソクラテスの例えとかで、
私がこのところ、
いや、厳密にはずっと伝えていることと、
ほぼ同じことを西部邁氏が語っているので、
抜粋して引用させていただこう。
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甘やかされたお坊ちゃん(=spoiled children)。
こういう連中達をオルテガはmassと呼んだ。
こうも言っている。
「massはmassでないものを徹底的に憎むのである」。
それ故に、
「指導しようとする人間達を事有る毎に引きずり降ろすのである」
と。
massはmassでないものを執拗に虐殺、扼殺をしかけて、
指導者が誰も居なくなった時に彼らは嘆いてみせる。
自分達で人材の可能性のある人間を次々に扼殺した後で
「指導者は居ないのか」と嘆く、まさに今の日本の状態。
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これは、
傲慢で卑怯な者達が使う手口で、
(甘やかされたお坊ちゃんの特徴ね)
深く人間を見ていると、
驚く事なかれ、実は、
頻繁
に、行われているのだ。
「指導者は居ないのか」と嘆く風に
見せかけているかもしれないが、
実は、最も卑怯で卑劣な方法を
使っておきながら、
自分が天下をとった気分に浸れて
喜んでいる。
ソクラテスや、
キリストを世から抹殺した者達だって、
邪魔者を引き摺り下ろして安心し、
喜んだはずなのだ。
賢者から、いちいち、
自分のフェイクが刺激されるのは、
我慢ならない。
心休まらない。
引用にある、
「執拗に虐殺、扼殺」
しかけるのは、
自分の身勝手な安心が欲しいが為なのだ。
ソクラテスやキリストが
賢者であるなら、
典型的な愚者のあり方ということである。
哲学者であるオルテガは、
その「人間の真実」を突いたのだ。
さて、この歴史から、
私たちが気づき、学ばなければならないのは、
都合の悪い人間が出現した時に
(何か不利な事や、不都合な事を言われたとか)
逃げ隠れしたり、
相手を排除しようと考えていないかどうか
ということだ。
逃げるのも、
排除するのも自由であり、
本人の人間性の問題だから、
どちらを選ばなければならない
とは思わないし、
言いもしない。
(あくまで自由選択。私が選ばないからと言って、
誰かが選ぶことに判断は下せない。)
ただ、やってはいけないことは、
いつも繰り返して言う通り、
逃げ隠れしたり、
上記のように、
massであるのに、自分のことを
学びのある賢者や貴族と思い込むことである。
どんなに分厚い仮面をかぶっても
かまわない。
それも自由だというのが、
私が一貫し伝えていることではあるけれど、
真実は、
どれだけ仮面をかぶってみせても、
愚者であり、mass(=大衆)であることに
騙されたりはしない。
それに、
大衆ごときの生き方をするのであるなら、
学びや、成長や、
生活の変化などと、
求める資格はないはずである。
なぜなら、
学びや成長は、
大衆がすることではないのだから。
大衆として、大衆でないものを
「徹底的に憎む」
生き方を選ぶのか、
(自分と同じでないものを不都合に思う生き方)
成長を求める賢者(貴族)の道を求めるのかは、
今日、どちらを使うか、
いつも、どちらを積み重ねているか
で、決まる。
本当は、
massか、そうでないか、
という「真実」は、
私たちが都合良く、
「学んでいるつもり」
「成長したいです」
などという「セリフ」で決まるわけではないことは、
忘れてはならないだろう。
自分が、massであることに気づいて、
改善できるなら、賢者になれる可能性は
十分にあると、私は考えているが、
どんなに体裁を整えても、
真実がmassであるなら、
massであることを覆すことはできない。
この話が面白いというなら、
賢者の道へ向かっているし、
耳が痛いとか、
気に入らないとか、
気分が悪い、
というなら、
既に、massなのかもしれない。
ひとつ、自身のバロメーターに
使ってはいかがだろう。
体重計でもメジャーでも、
正しく計れないものは、
正しい判断も下せない。
(体重100kgの中学生が、壊れた体重計に乗って、
あら、私40kgで痩せ過ぎだから、
もっと食べなくっちゃ!と言ったらどう思う?)
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