20代で悟りの人
自分の愚かさや傲慢さに気づいて愕然とし、
これはほってはおけまいと、
せっせと、魂の向上をはかる素晴らしい人を、
何人か知っていて、
そういう人は、ビジネス的にも
人間的にも尊敬してしまう。
人は、そうやって皆、向上する
という課題の中に生きているものだけれど、
どうやら、生まれ持って
ほぼ悟りの境地に近い人が存在する
というのを、近いところで知ってしまった。
子供の頃からIQがすこぶる高く、
普通の子ではなく、親や教師が心配する程である
という、これまた、別の意味での苦悩があるのかもしれないが、
20代そこそこにして、
お釈迦様が悟りを開かれた、その感覚と
同質のものを感じる。
悟りとは、言葉にできるものではないから、
何が悟りなのかは、感じ取るしかないわけだけれど、
簡単に行ってしまえば、
何一つ、差別(差)がないということ。
これもあれも、どれも大切であり、
全てが一つとなって調和した状態のことである。
成功しようと考えるのも、
お金を得ようと考えるのも、
あの人はこの人はと批評するのも、
全て、悟り行きとは逆行きだから、
この世的な成功を目指す以上、悟りの道へ進むことはない。
別に悟りなんぞ開けなくて結構と、
悔し紛れに開き直るのは自由だが、
これまた、大変な怠慢な考えであるし、
かといって、
悟りを開くぞ!というのもまた、
傲慢の極みである。
なんとも、ややこしいものだけど、
このややこしさを解くのが、学びだから、
学ばず、いつまでも愚かなままでいるわけにもいかない。
ほぼ悟りを開いたかのような
そういう人に対して卑しくも、いいな~、と羨ましがる反面、
どんな意味をもって今生に誕生されたのだろうと
とても興味深い。
そういう存在に近づけている、
ということも、実は何気に嬉しい私なのだ。
ここは、素直に喜ぶことにしよう。
↓ 今日も生まれてありがとう。朝、いつも通り目覚めました。
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