人間は変われるだろうか?
人間は変わらない。
だから、どんなに努力しても、
無理である。
これが、基本です。
が、
変えることもできます。
但し、
という条件つきです。
変えられる方法を使えば、変えることができる
という条件です。
自分で変える気がない
自分で変えられると思っていない
誰かに変えてもらいたいと願っている
こんな要素があれば、途端に難しくなりますから、
基本である、
“変えることはできない“、
という方法を使い続けて終わることになるでしょう。
何事も、レベルというのがあります。
基本レベルから始まり、徐々にレベルアップです。
書道やそろばん何段
とか、
ピアノで、バイエルからモーツァルト
とか、
バレエでバレエシューズからトウ・シューズ
とか、
パソコンのキーボード打ちで
1本指からブラインドタッチまで、
とか。
基本レベルを達成しなければ、当然、その次のステップにはいけません。
そんなことは、分かり切っているはずなのに、
何故か、生き方の基礎も知らなければ、
命の基本的な意味も知らなかったりと、
学ぶ場もなければ、
教える先生も少ない。
その代わりをするのが、何故か宗教だったりと、
一歩間違えば、大間違いか、勘違いになる。
宗教が悪いわけではないが、
正しく活用できる人が少ないところを見ると、
宗教を正しく教えてくれる教育機関も殆どないのだから、
どうしようもない。
本来、親が、正しい生き方や、生まれてきた意味を教えるなどの
責任を担うべきはずなのに、
大人が、既に自分のことで精いっぱいの上、
平気で責任放棄するわけだから、
生き方が上手になるチャンスなど、
殆ど与えられない。
もし、そういう教育機関が発達していて、
それを正しく教えてくれる先生が多い世の中なら、
何も、私が人間教育などと、
大そうな責任をもって、セミナーやら、
人間関係の作り方やら、
自由なライフスタイルの作り方、
など、講義してまわらなくてもよいのかもしれないけど。
それにしても、
愚民化政策の弊害としか思えない我が国の、
大人の不自由度を見ていると、
将来の子供たちのためにも、
大人自身の為にも、
やっぱり、黙ってはいられないとなってしまう。
自由なライフスタイルが欲しいです!
と、口先では言っていても、
結局、日本の中で奴隷的自由人を続ける方が楽でよろしい、
と、惰性的怠慢を選ぶ人も多い。
そんじゃあ、文句一つ言わず、
喜んで奴隷を続ければよいものを、
それは、それでいやだというのだから、
お好きにどーぞ、としか言いようがない。
そんな中であっても、本当に真剣に人生を好転させよう
という人の姿は、こちらも勇気をもらえるよう。
過去は、過去なんだから、今からを素敵にすればいいじゃん。
といって、素直に、「そうだね」と、目を輝かせる人は
本当に素敵だ。
だって~、うんちゃらかんちゃら。
でも~、うんちゃらかんちゃら。
ヤカマシワ!(やかましくてよ)
というのと大違い。
それは、変える気があるのとないのと、
どちらでも、自分のお好み次第というわけだから、
全然、難しくないのだというところが面白い。
素直じゃない人は、
「難しいから」という理由を使いたくて、使いたくてしょうがない。
だから、いくら私が、「難しくないよ」、
と、可愛く優しく言っても(!)、
全然、聞こうとさえしない。
だって、「難しいから、変えることはできない」
という考えを、決して変えようとはしないのですもの。
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